
今年の9月から10月にかけて行われた「第71回国民体育大会」は、1970年に岩手県で開催されて以来、実に46年ぶりに岩手県が会場となりました。山田町は初めて競技会場として選ばれ、高等学校野球(軟式)競技が行われました。
会場には地元の食材を使ったお振る舞いのコーナーや、旬のまつたけの直売所などが設けられ、他県から来られた方々で賑わいました。
また、球場には町内の小中学校の子どもたちも応援にかけつけ、熱い声援を送っていました。
東日本大震災より5年が経過した今、「復興の架け橋」と称された本大会では、大会を通じて出場された選手団や応援にかけつけた方など全国から訪れる方々へ、東日本大震災への緊急・復興支援に対する感謝をお伝えする機会となりました。
岩手県沿岸部でも、桜のつぼみが膨らみ始め、春の気配を感じられるようになった4月。子どもたちへ素敵なお菓子のプレゼントを届けに、園舎の建設などで支援させていただいた保育施設へお邪魔しました。このお菓子は株式会社不二家様から、山田町と大槌町の子どもたちのためにご寄贈いただいたものです。
今回訪問した宮古市の津軽石保育所、大槌町の安渡保育所では、子どもたちがたくさんのお菓子に大喜び。お菓子が詰まったペコちゃんの袋を宝物のように抱え、「また来てね!」とハイタッチで見送ってくれました。
その子どもたちの環境や生活は、街の復興とともに変わり続けています。
岩手県宮古市にある津軽石保育所は、2011年9月からの約4年半、FIDRが建設を支援した仮設園舎で保育を行ってきました。今年度より、新築された本設園舎での生活を始めた子どもたちは、木のぬくもりと太陽の光を感じられる明るい園舎で、伸び伸びと過ごしています。
大槌町の安渡保育所では、園児たちが現在も仮設園舎(2013年5月建設)で毎日を過ごしています。昨年度は保育士不足のため受け入れができなかった3歳未満児が今年度は10名入所し、賑やかなスタートを迎えました。
安渡保育所の周辺では、この2年ほどでたくさんの住宅が建設され、現在も災害公営住宅などの建設工事が行われています。工事車輌が行き交い重機の轟音が響く地域の中で、保育所からは子どもたちのかわいらしい声が絶えず聞こえ、このあたり一帯のオアシスのようです。
被災地域では、震災から5年を迎え、避難先の内陸部から元々暮らしていた沿岸地域に戻る人が増えてきています。しかし大槌町では保育士不足などの理由により、待機児童が少なくない現状もあるそうです。そのような中、保育士の方々は、地域住民の方々が安心して子どもを預けられる場所をしっかり守っていこうとされていました。
岩手県大槌町で、「大槌のお楽しみ市〜何あんだんべぇ〜」が2015年6月14日(日)に仮設商店街の駐車スペースで開催されました。地域の中に「喜び」と「つながり」を生もうと震災の翌年から始まった地域のみなさまによる市も、もう19回目。今回は、手作りの品やお菓子の出店に加え、ハーモニカ演奏、そして今年度初の開催を祝っての「餅まき」も行われました。
そんな会場の中心に置かれていたのが「お互い様募金」の募金箱。今回集まった募金は、4月に大地震に見舞われたネパールの人々のためにと、支援活動を行うFIDRへ寄付してくださいました。
震災から4年以上たった今も多くの方が仮設住宅に暮らす大槌町のみなさま。自らもが経験したからこそという思いのつまった募金に深く感謝するとともに、その思いをネパールの方々に届けたいと強く思いました。
岩手県山田町の災害公営住宅柳沢団地の改修工事が4月に竣工し、6月から入居者を待つばかりとなりました。
この団地は平成13年7月から建設された3棟の町営住宅でしたが、震災で被災し、2階から3階の一部まで浸水しました。震災以降使われていない状態でしたが、昨年8月から改修工事を行い、1階を非住居、2〜4階を災害公営住宅に改修いたしました。
敷地内には改修された集会施設もあり、新たなコミュニティーづくりに活用されるものと期待されています。
山田町内の災害公営住宅は最終的に777戸の建設が計画されていますが、現在までに、121戸(2箇所)しか完成しておらず、今年度も118戸(4箇所)の建設が予定されているのみとなっています。残りの538戸(12箇所)がすべて完成するのは3年後(平成30年度)の予定となっており、未だ多くの方が仮設住宅団地での生活を余儀なくされています。
このように災害公営住宅への入居が進んでいく一方で、まだ公営住宅に入れずに仮設住宅団地での暮らしを続けられ、言葉に出来ない不安や焦りを抱えながら毎日を過ごされている方が見受けられるのも事実です。
高齢に差し掛かったり昨今の建設費高騰などによって自宅の自主再建を断念する方や、老化により体力が衰える方が増えたり、家族を失い精神的苦痛を抱えていらっしゃる方など、震災から4年という年月を経た現実が、仮設暮らしを続けていらっしゃる方々に重くのしかかっています。
「復興に向かってはいるが、まだまだ先は長い」現在の山田町を見て、改めてそう思いました。
2015年3月11日、東日本大震災から4年を迎え、被災地では各地で鎮魂の祈りが捧げられました。FIDRが支援をしている岩手県山田町と大槌町でも追悼式や祈りがささげられていました。
大槌町では、9時から町役場にて「大槌町東日本大震災津波追悼式」が執り行われ、町民のみなさんが絶え間なく献花に訪れ、犠牲になった方々のご冥福をお祈りしていました。また、多くの職員が犠牲となった旧大槌町役場庁舎も遺族の祈りの場となっていました。
山田町でも追悼式が執り行われたほか、犠牲者への追悼及び復興の象徴として建てられた「鎮魂と希望の鐘」の前では多くの方が祈りを捧げていました。
山田町と大槌町は、震災から4年経ち、街の様子も少しずつ変化を見せ始めています。大槌町の町役場付近では盛土が始まり、今年の秋頃から住宅の建設も進めていく予定です。山田町の役場前の旧市街地では、昨年から始まった嵩上げ工事の真っ最中で、街中の各所に5mを超える盛土が出来つつあります。山田漁港海岸では防潮堤の整備も始まり3年後の完成を目指して工事が進んでいます。災害公営住宅への移転、建設も昨年から進められており、現在急ピッチで街の復興が進んでいます。
しかしまだまだ課題があるのも確かです。山田町では移転する高台の造成が遅れているため、災害公営住宅の建設も遅れており、現時点で1か所しか完成されていません。仮設住宅団地での生活はまだまだ続くことが予想されており、長い人では2019年まで暮らし続けなければならない可能性が出てきています。
4年前の3月11日も今日と同じように底冷えのする寒い日だったのを思い起こしました。未だにもとの生活を取り戻せない被災者は、明日への希望を信じることで今を乗り越えようとしています。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りすると共に、一人でも多くの人が希望を信じられる街になるようにサポートし続けていきたいと感じました。
2月3日、山田町の「山田八幡宮」で節分祭が執り行われました。
今年は天候も良く、昨年を上回る人出で普段は静かな境内も大賑わいでした。
夕方6時から行われる清祓いという神事の後、氏子さん達が袋詰めをした1,200袋の豆と奉納されたお菓子や水産物、日用品、紅白モチが3か所から一斉に撒かれました。
3か所のうち1カ所は子供用専用の場所。ロープで区切り、その中に撒きます。子どもたちは上から降ってくる豆や大量のお菓子に歓声を上げながら拾っていました。
また、紅白モチの中には当たりクジが入っており、当たった人は熊手や破魔矢の縁起物の他に山田産の水産物や奉納された品々と交換していきました。
山田八幡宮では、震災直後から子どもの日に境内を開放して子供向けイベントも開催しています。震災以降は山田町以外の方々からも多くのご協力があり、今まで続けられてこられたそうです。
「楽しい事は地元の神社からと思い、町民に喜んで欲しい一心で震災後もずっと続けてきました」と佐藤宮司は仰っていました。
震災から4年、町は復興に向けて変わりつつありますが、節分祭も変わらない気持ちで続けて欲しいと思いました。
東日本大震災により壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町。町の復興のためには基幹産業である水産業の立て直しが急務だと考え、FIDRでは今まで大槌町に定置網、定置網漁船(第一久美愛丸)などの漁業支援をさせていただきました。
現在、サケの定置網漁が本格的に始まっており、定置網漁(第一久美愛丸)のサケ水揚は11月末現在で数量対前年同期31.3%増、漁獲高対前年同期80.2%の増となっています。
秋サケは稚魚放流からおよそ4年で生まれ故郷の川に帰ってくると言われています。東日本大震災から4年目を迎える今季、東北沿岸部の秋サケ漁が不漁に終わるかもしれないという声は、以前から水産業関係者や一部の報道で囁かれていました。そのため、大槌町漁業関係者は、さけます第2ふ化場の竣工を大変待ち望んでいました。
その大槌町サケマス第2ふ化場の竣工式が、11月11日に執り行われました。
式典では、碇川大槌町長が「この施設により、隣接する第1ふ化場と合せて2,000万尾の放流が可能となる施設が立派に完成したことを深く感謝しています。」とあいさつをし、通水式(テープカット)が行われました。
町では、来年3月頃には第1ふ化場と合せて2,000万尾の放流を見込んでいます。阿部新おおつち漁業協同組合長は「水産業復興の後押しをする施設ができ、関係者に感謝しています。以前のように、浜には活気が戻ってくるサケ漁を期待しているが、サケが戻ってくるのは3〜4年後になるので、それまで頑張っていかなければならない。」と仰っていました。
支援させていただいた施設とこの施設が相まって秋サケ漁が大漁することを祈願するとともに、大槌町の復興が一層進むことを期待しています。
あの日からもう3年。悲しみの時が流れました。
2014年3月11日の山田町では、「岩手県・山田町合同追悼式」が山田町中央公民館で執り行われました。町内の様々な場所では祈りに訪れる遺族の方、関係者の方が見受けられました。
震災の発生した14時46分、山田町ではサイレンが鳴り、各場所で鎮魂の祈りがささげられました。
「かけがえのない人生を突然奪われた方々の無念」
「「生きていることが恩返し」と言い聞かせ、震災を生き抜いた方々の想い」
「震災を風化させることなく伝えることの責務」
「まだ癒えぬ悲しみ」
それぞれの人が、様々な想いを抱きながらも明日へ続く道を歩み出せると信じ、山田町の2014年3月11日は過ぎて往きました。
震災当初、山田町の街並みは見渡す限り白黒の世界でした。
壁のように積み重なった瓦礫、あちこちに立ちのぼる煙、まばらな人の姿。目の前に広がる色彩が抜け落ちたモノクロ写真のような光景は、青い海、緑の山々が印象的な山田町の見慣れた姿はありませんでした。
そんな目を背けたくなるような震災から丸3年が経つ今、山田町は、一歩一歩着実に、復興へと向かっています。
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当時、町中に溢れ返っていた瓦礫は一か所に集められ、山のように盛られていましたが、既に90%ほどは処理されており、今年の3月には全ての処理が完了する予定です。
また、震災後、長らく基礎コンクリートがむき出しの荒れ地と化していた地域では、今後行われる整地工事に伴い、現在着々と基礎部分の撤去作業が行われています。将来的には数メートルもの土が盛られる嵩上げ工事が行われた上で、整地工事が行われます。
その嵩上げ工事と同時進行で進められているのが災害公営住宅の建設です。現在山田町の一部の地域で着工し始めており、平成28年度までに町内19か所での建設を予定しています。
このように町の復興が着々と進んでいく一方で、仮設住宅での暮らしを余儀なくされている皆さんは不安や焦りを募らせつつあります。
今年の2月、町営施設の建設予定に建てられたある仮設住宅団地では、今春からの着工が決まり、集会所と仮設住宅の一部の閉鎖が決定しました。そのため約30世帯の方々が移転しなければならなくなりました。
「引っ越す際の費用の負担がどうなるのか?」
「引越しの時期はいつになるか?」
「他の仮設住宅に入れるのか?」
「集会所の有無をどうするのか?」
突然の移転の話に、住民の方の中では戸惑いを隠せないご様子の方も見受けられました。
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被災地では、震災から3年という年月を経た現在でも、依然として人々の暮らしに対する不安が拭えない日々が続いております。
「復興に向かってはいるが、まだまだ先は長い」
3年が経とうとする今、山田町を見て、改めてそう思います。
岩手県沿岸中部に位置する山田町は北上高地の裾野にあり、総面積の約9割は山間部にあたるため、海の幸だけではなく山の幸も豊かで魅力的です。
その山田町で設立された「山田猟友会」は、78年間にわたり活動を続けている歴史ある猟友会です。現在27名が所属し、地域に害を及ぼす鳥獣駆除の一助となっています。
昨年11月からのシカの捕獲頭数は約75頭(2014年2月10日現在)。この捕獲したシカ肉を活用するために、シカ肉をはじめとする鳥獣肉販売の仕組み作りを進めています。そのために保健所の許可や、冷凍技術の模索等、まだまだ解決すべき問題は残っています。なので、先ずはシカ肉を町の人たちになじんでもらうことを目的として、動植物の生態に関する勉強会を企画し、その場で様々な鳥獣肉を振舞おうとする動きもあります。
猟友会では「いつかは鳥獣肉が“山田ブランド”としての地位を確立できたら」という目標を掲げていますが、現在後継者不足にも悩まされているため、会員一人ひとりが積極的なPR活動を行っています。
震災ではマタギ小屋はじめ多くのものを失ってしまった猟友会ですが、いつか必ず復活しようと、現在様々な準備を進めているところです。
山田町役場の隣、山田湾が一望できる高台に位置する「山田八幡宮」では、10年以上も前から「節分祭」が行われています。震災時には神社のふもとまで火の海が押し寄せましたが境内は大事には至らず、震災後も続けてお祭りが行われています。
山田の人々は大のお祭り好き。この日は夕方からみぞれが降るあいにくの天候だったにも関わらず、若者からお年寄りまで、大勢の人々が集まりました。
夕方6時頃から神事が始まり、神楽が奉納され土地と参拝者の厄を払った後、恒例の「豆まき」がスタートしました。
山田八幡宮の節分祭では、神社で用意する「豆やお餅」の他に、町内の氏子さんや商店主さんの奉納品がまかれます。今年はお菓子・うどん・インスタントラーメン・歯ブラシ・パック入りの魚などが撒かれました。まかれた紅白のお餅の中には熊手や食品の詰め合わせが当たるクジが入っている物もあります。
年男、年女、郷土芸能団体の方等総勢14名がまく品々に人々が押し寄せ、人の波がうねり、普段は静かな境内もこの日ばかりは熱気であふれかえりました。
「町の人たちに少しでも元気になってもらいたい」という思いから、奉納品は震災前よりも後の方が多いそうです。震災から3年が経ちますが、被災地では少しずつ、震災前の活動を取り戻し、街の人々が活気を取り戻しています。
山田町には、毎年秋に「山田八幡宮神幸祭」と「大杉神社神幸祭」の2つの例大祭があり、海や街中を駆け回る、暴れ神輿が有名です。特に大杉神社の神輿では海上渡御が有名で、毎年多くの観光客が山田町に見物に訪れていました。
そんな山田町の人々が楽しみにしていた2つの例大祭ですが、震災後は「復興・山田がんばっぺし祭り」と名称を変えて行われています。今年も9月14日〜16日の3日間、開催されました。
お祭り会場のステージでは町内の保育園・幼稚園の子供たちがこの日の為に練習した踊りや太鼓・楽器の演奏を披露しました。また、初日には「AKB48」の飛び入りステージもありました。
2日目には一般公募で決まった新しい山田のキャラクターのお披露目もありました。あいにくの雨模様でしたが、沢山の人で賑わいました。
左がまつたけと椎茸をイメージした。「たけちゃん」右が「やまだちゃん」。頭には山田の観光名所・大島(オランダ島)・小島をのせ、背中にはカキの殻、首にはホタテと山田町の名所、名物を取り揃えたキャラクターです。今後たくさんのイベントなどで活躍して山田を盛り上げて欲しいと思います。
3日目は岩手県に台風が接近し、悪天候となりましたが、ステージイベントは公民館へと場所を移して行われました。
今年はお祭りに合わせて被災した大杉神社の神殿も高台に新設し、神輿も修理に出され、昨年以上に震災前の例大祭に近い形でお祭りを開催することができました。来年こそは更に活気あふれるお祭りになって、より多くの観光客が訪れてくださるよう期待しています。
「山田町ってどんなとこ?」と聞かれると、私はこう答えます。「なんでもある所だよ!」と。
山田町といえばカキやホタテなどの海産物、マツタケやシイタケ、山菜などの山の幸。そして震災に負けない素敵な笑顔のみなさんが山田町の宝です。
穏やかな湾内でシーカヤックするも、沖で釣りを楽しむも良し。山へ散策に出かけるも、山菜や季節のキノコを採るも良し。そんな、いいトコどりの山田町の一端を紹介します!
見てください、この牡蠣の大きさ!
ここは、やまだ観光物産館「とっと」。「とっと」とは山田弁の幼児語で“小鳥”の意味で、「羽ばたけとっと」という期待を込め命名したそうです。とれたての旬の海産物をその場で焼いて食べられるスポットです。もちろん生でもいただけます。
「とっと」ではこのような新鮮な海の幸の他に、手作りパンのお店「山田湾ベーカリー」や山田せんべいソフトクリームもオススメです。
最近天気の冴えない山田町でしたが、この日はみんなの祈りが届いたように気持ちのいい晴天の朝になりました。私たち山田事務所のメンバー3人、事務所付近にあるなかよし公園の整備に参加してきました。
この公園は海から600m程で、震災の時には津波が押し寄せました。震災から2年以上たった今もそのときのガラスやガレキの破片が散乱していました。さらに、震災後しばらくは復興商店街の仮設店舗が建っていたため、その跡地には大きな砂利がたくさん残り、子どもたちが安心して遊べる環境ではありませんでした。
そこで、町民のみなさんと山田町で復興のために活動している団体が集結し、「みんなで「この公園の整備をしよう」と動き出しました。
この日集まった参加者は70名以上。園庭や砂場の砂をふるいにかけ、ガラスや砂利の撤去・周辺の草取り、排水口や側溝の清掃などを行いました。
暑い中の作業にも関わらず、みなさんが自分たちの町をよくしようと作業をする姿や、老人クラブの大先輩と一緒に作業する子どもたちの笑顔がとても印象的でした。
※今回の公園整備プロジェクトは、「町民のみなさんと一緒に山田町を元気にしたい!」という思いで集まったNPO/NGO、地元団体、行政機関によって立ちあげた「わくわく山田座団会」というネットワークの活動の一環です。FIDRもネットワークの一員として活動を盛り上げています。
平成25年3月11日――震災から丸2年経ったこの日、山田町の震災写真集が発売になりました。昨年11月に町の有志の方から「今後の防災教育のためにも、山田の震災を記録した写真集を出したいから協力してほしい」との言葉を受けたFIDRは、写真の収集および編集、発行をお手伝いしました。
町内外の方々から1000枚を超える写真の提供がありました。
震災当日に津波から逃げる時に携帯電話で撮影したものや、避難先の建物から写したもの、津波が引いた後におきた火災の様子、身内を捜していた時に写したものなど、いずれも貴重な光景で、写真集に掲載する写真を選ぶのに大変苦労しました。地元の編集委員の中には、当時を思い出して言葉少なになる方もいらっしゃいました。
この写真集は震災の様子だけではなく、震災前の美しい山田町の風景や、震災後に町外から支援に来てくださった方々の写真も載せたので町民の方々に大変よろこばれました。震災後の山田町しかご存じない方にも、山田にはこんなきれいな場所もあったということがわかる写真集になっていると思います。
おかげさまで3月11日の発売から1か月もしないうちに増刷が決まりました。皆さんに支援していただいた山田は少しずつ前進しています。
12月26日から28日にかけて、FIDRは岩手県山田町の仮設住宅団地で、お正月のしめ縄づくりと大掃除のお手伝いをしました。今回も協力してくれたのは日本体育大学の学生の皆さん。現地で感じ、考えたことを語ってくれました。(お手伝いの様子についてはこちら)
※写真はイメージです
◆ボランティア回数1回目 Sくん
今回、仮設住宅を訪問させていただくと、中には電気のついていない部屋で一人で座っている方や、どこか俯き加減な方がいらっしゃいました。心のケアという面ではまだまだ対応できていない部分があるのかなと感じました。
被災地の方々には本当に暖かく迎えて頂いたことが一番思い出に残っています。それと同時にこの短い期間でしか話し相手や、お手伝いすることしかできないことに、歯がゆさも感じました。
◆ボランティア回数2回目 Iさん
初めて被災された方たちとお話をさせていただいて、特に「仮設がなくなったらどこに住めばいいのか」と心配される方が非常に多かったです。今回は65才以上の方を対象としたお手伝いでしたので、自分の祖母と同じ位の年代の方々の口から、こんな言葉が出てきて正直なんて声をかけたらいいかわかりませんでした。
感動したことは、自分たちはちょっとの時間だけでお正月飾りを作ってお掃除しただけなのに、涙を流してありがとうと、お礼の言葉をくださったことです。ちょっと耳が遠いのかな、と思ったお婆ちゃんがいて、なかなか作業についていけてないのに気付き、私は放っていられず、つきっきりになり一緒にリースを作りました。3回もの津波の体験談など沢山お話をしながら完成させて、帰り際、お婆ちゃんは涙を流して「私には作れないと思ったから。本当にありがとうね」と言ってくれました。「自分たちはこんなにちっぽけなことしかしてないのに」と自分も涙が止まりませんでした。お婆ちゃんのお家まで行き、お手玉をいただきお別れ。本当に感動しました。
山田の人たちは、みなさん本当に温かい方々ばかりでした。
◆ボランティア回数2回目 Kさん
街の風景を見ただけだと昨年とほぼ変わっていないと感じましたが、人と接してみて地元の方々は昨年より話し方も表情も前向きに明るくなっている感じがしました。
仮設住宅にお住まいの高齢の方々には、娘、孫のように接していただき、「人と話すということ」がどれだけ幸せなことで、癒されることで、大切なことであるのか、東京では決して感じることができない体験をしました。
◆ボランティア回数4回目 Oくん
被災地に行ったのは1年ぶり。正直、ほとんど変わっていないことに衝撃を受けました。でも、仮設住宅の方々とのふれあいを通し、逆に私たちが元気をいただきました。この1年で被災地の皆様の笑顔も増えたなと思いましたし、皆様の優しさに触れて、私も心から笑うことができました。
1年前にお伺いした方に偶然にもお会いできたのは本当に嬉しかったです。以前と変わらない元気な姿を見ることができました。あの時いただいたイワシの味は一生忘れないです。
お伺いした先々で皆様、「また来てね」とお声をかけてくださりました。またぜひお会いしたいと強く思いますが「仮設住宅ではない場所で会いたい」というのが本望です。皆様が仮設を出られた後も、何かしらの形でお会いしたいですし、これからもずっと関わっていけたらと思います。
「みょうじんまるー、がんばってー」
地元の保育園児の声が響く中、岩手県唯一の中型イカ釣り漁船「第81明神丸」が11月27日、大槌漁港から出港しました。
明神丸は兄が機関長、弟が船頭の「兄弟船」。出港の時に流れる音楽は軍艦マーチに続いて演歌の「兄弟船」で、今なお震災の爪痕残る大槌漁港に集まった多くの町民は、笑顔で見送りました。
2010年、引退した父親から2人が受け継いだ船は「第31明神丸」でした。機関場を修理して始めたこの年の漁は水揚げに恵まれ、幸先のいいスタートを切ったかに見えました。
しかし明くる年、船は整備のために宮城県気仙沼市に停泊していたところ震災の津波に飲まれて横転。その後に港を焼けつくした火事に巻き込まれ、焼失してしまいました。
機関場修理にかかった負債も抱えていたことから、操業の規模を縮小し、新たな漁船は小型船に切り替えてしのぐという方策も選択肢の中にはありました。けれどもまだ30代と若い兄弟に後ろ向きな気持ちはなく、今まで通りの中型船での再起を決意。「大槌いかつり漁業生産組合」を立ち上げ、国の復旧支援対策事業などを活用して、なんとか新造船「第81明神丸」を完成させることができました。
新生・明神丸は、従来の2倍の冷凍能力があり、オゾン層にも優しい「自然冷媒凍結システム」という最新鋭の機器を、漁船で初めて搭載しました。これにより、以前よりもさらにおいしい状態でイカを保存できます。また、「LED集魚灯」の一部導入などで省エネ化を強化し、漁場に臨みます。
兄弟にとって震災以降初のイカ釣り漁となるため、長いブランクに対する不安があります。新造船完成が11月となったため、通常5月に始まるイカの漁期に半年も遅れを生じ、今年の水揚げは厳しいものになることが予想されます。それでも支えてくれた人たちに恩返しをしたいとの気持ちを胸に、明神丸はぐんぐんと白い航跡を伸ばして港をはなれていきました。
早いもので、東日本大震災から1年8ヵ月が経ちました。FIDRは震災直後から今日まで、皆さまからの温かいご支援とご協力に支えられながら岩手県の被災地で活動してきました。
そして今年の11月、FIDR山田事務所は開設1周年を迎えることができました。現在は5人体制(内1名は東京からの出張)で山田町、大槌町を中心に活動しています。
FIDRは、今後も引き続きこの山田事務所を拠点として、「現場主義」をモットーに、地域に密着し、被災者の方々と共に一丸となり、復興、そしてその先にある発展へ向かって活動を進めていきます。
「薄木さん、佐々木さん、今日はよろしくお願いします!!」。教室に入ると、子どもたちから元気な挨拶と大きな拍手で迎えられました。10月30日、山田町立大沢小学校から授業のお話を聞く会に招かれ、「一日先生」をしてきました。
今回のお話は急遽、授業の前日に担任の先生から連絡があり実現したもので、5年生のクラス(20名)の、震災後山田町で支援活動をしてきたNGO・NPOの仕事や、地元の漁業の復興状況を調べて発表するという、グループ研究のお手伝いをしてほしいという内容でした。
まず震災直後の避難所への支援から現在に至るまでの、FIDRの山田町をはじめとする沿岸被災地での活動や、山田町の観光産業を活性化させる取り組みを行っていることなどを説明しました。すると次から次へと手が挙がり、一斉に児童からの質問攻めに遭いました。
「これまで支援活動をしてきて一番大変だったこと、嬉しかったことは何ですか?」
「どうしてNGOの仕事に就こうと思ったのですか?」
「すごくキレイな山田町の海を初めて見た時、どう思いましたか?」
好奇心旺盛な子どもたちの「なんで??どうして??」という積極的な質問にたじたじになったと同時に、皆の「山田町が大好き」という気持ちがひしひしと伝わってくる質問に、何だか嬉しくなりました。
中には「山田町に一生住みたいですか?」という意表を突いた質問もありましたが、「はい!山田町でお嫁さんを見つけて一生住みたいです!!」と答えると、教室にどっと笑いが起きました。
最後に漁業の復興状況について説明したあと、子ども達に「将来、漁師さんになりたい人はいますか?」と質問しましたが、意外なことに女の子一人だけしか手を挙げませんでした。男の子は野球選手やバスケットボール選手などの有名なスポーツ選手に憧れており、身近にある地元の産業にはまだそこまで魅力を感じていない様子でした。しかし、山田町に限らず沿岸被災地では、都会に働きに出ていた若者が、震災後に地元の基幹産業の魅力を再認識し、地元に戻り親の後を継ぎ、地元復興のために頑張っているという話をよく耳にします。この子どもたちも大人になるにつれて、漁師などの基幹産業に魅力を感じる日がきっと来るのではないかと思います。45分という短い時間でしたが、非常に密度の濃い、楽しい授業となりました。
今回の出張授業では、FIDRのこれまでの支援活動が多くの人たちに支えられてきたこと、また山田町には町民のみなさんが気付いていない魅力がぎっしり詰まっていることをお話しました。
この子どもたちが、全国からの山田町復興への応援を背に受けて、山田町の将来を背負って立つ大人になってくれることを願います。
9/15〜9/17、今年も山田町では「山田がんばっぺし祭り」が開催されました。来訪者数は17,000人。山田町は震災で街を離れた人も多く、宿泊先も減っていることが影響して、震災前に比べ人数が減少しています。しかし、9月としては異例の30度を越える晴天のもと、熱気に包まれたお祭りとなりました。
16日には「山田八幡宮神輿巡行」があり、震災前に修理に出していたお神輿が初披露されました。例年ならば、大杉神社のお神輿もあるのですが、被災で破損したため、山田八幡宮の1基のみの巡行となりました。山田のお祭りといえば、大杉神社神輿の「海上渡御」が有名なのですが、今年もそれは叶いませんでした。1日でも早い復旧を願うばかりです。
震災被害は今年8月末現在で、死者・行方不明者786人、被災家屋3,369棟、町の人口も震災前に比べ2,000人程減少しています。しかし「山田の祭りには神輿を担ぎに帰ってくる」「地元のお祭りには帰ってくる」「お祭りには踊りたい」と、町外から戻ってくる人も少なくありませんでした。
今年の担ぎ手は、震災により町を離れてしまった人も多かったこともあり、平年より40人余り少ない90人位だったそうです。担ぎ手の方々はこのようにおっしゃっていました。
「犠牲になった人達や、移住を余儀なくされた方々の力になれば・・」
「亡くなった友の分まで担ぎたい」
「神輿の重さは、お神輿様を拝む皆の気持ちの重さです」
そんな担ぎ手の気持ちを知り、1日でも早い復興を願わずにはいられないと感じた3日間でした。
東日本大震災発生から1年5ヵ月となる、8月11日。「LIGHT UP NIPPON 2012」と題した花火大会が、昨年に続き、今年も東北被災3県の13ヵ所で、同時開催されました。今年、岩手県のメイン会場となった山田町でも、追悼と復興の祈りが込められ、色鮮やかな無数の花火が打ち上げられました。合言葉は、「東北を、日本を、花火で、元気に。」です。
今年の3月11日、震災1年を機に、まだ見つからない家族への想いに区切りをつけ、死亡届を出した方がいました。その方々にとっては、震災から2度目となる今年のお盆は、特別な想いで迎える初めてのお盆になったことと思います。
花火大会の会場から少し離れた漁港では、打ち上げ開始の数時間も前から、波のない静かで穏やかな海をじっと見つめる家族や老夫婦の後ろ姿がありました。その一方で、「亡くなった方の分までしっかり生きて、自分たちの町を元気にしていこう」と、花火大会の準備に一生懸命となっていた若者たちの姿がありました。彼らがこれからの町を背負ってくれることでしょう。
花火の打ち上げ前には、海へ向かい、全員で黙祷が捧げられました。2012年3月11日と同じく、直前までパラパラと降っていた小雨も、打ち上げ時刻が近づくとぴたりと止みました。地上の人たちの様々な想いとともに打ち上げられ、そして消えていくひとつひとつの花火を、亡くなられた方々の魂が天上から見守っているように感じました。
来年の夏、復興がさらに進み、東北の被災地が前に向かって力強く歩いていることを祈りつつ、FIDRはこれからも復興の支援を続けていきます。
大切な品や大切な人を失い途方に暮れていた時間は、彩りの無い毎日でした。
音楽を聴いたり、ましてや歌ったりする気すら起きなかった日々。
様々な状況で東日本大震災を体験した方々に、少しずつ気持ちの変化が出てきたのでしょうか。仮設住宅の談話室を訪ねると、カラオケに合わせて歌声が聞こえてくることが増えてきました。
株式会社エクシングから無償で貸出していただいたカラオケ機器が、今山田町で大活躍しています。
間奏の台詞まで完璧にこなすおじいちゃんもいます。
歌っている人に合わせて、みんなで口ずさむこともあります。
曲に合わせて踊りだす人もいます。
選んだ曲の入力ができない方が多い中、
「自分は歌えないから」と、曲を打ち込む練習を始めた方もいます。
そして、「曲が聴こえたから」と立ち寄る方々も。
彩りのある温かい空気がその場所を包みます。
音楽を聴いて涙する時期を過ぎ、自分で歌える元気が出てきたのかもしれません。
様々なことが思うように進まないという気持ちもあるようですが、それでもひとつずつ歩みを進めているように感じます。
そんな話を聞きながら、私も歩みを進めなくては!と元気をいただく毎日です。
※株式会社エクシングによるご支援内容はこちら
山田町の澄んだ空、3匹の青いこいのぼりが元気に泳ぐ姿に、子どもだけでなく、大人まで童心に返り、皆さん嬉しそうに、ずっと眺めていました。
4月14日、FIDRが自治会形成などの支援をしている山田町のある仮設住宅団地で、「こいのぼりあげ初め式」が行われました。こいのぼりは、歌手でタレントのうつみ宮土理さんから贈られました。
うつみさんは、今年3月に山田町を訪れ、4か所の仮設住宅団地で「復興応援トークライブ」を行いました。ここで披露されたのが、加藤登紀子さんが作詞作曲された「青いこいのぼりと白いカーネーション」でした。
うつみさんは、山田町の皆さんの熱い歓迎と元気な姿に感動され、「山田町の空を青いこいのぼりで埋め尽くしたい」という想いから、希望する42か所の仮設住宅団地に1セットずつ、青いこいのぼりを贈られました。
FIDRは先の「復興応援トークライブ」の開催に協力をしたご縁から、今回のあげ初め式では、うつみさんに代わり、男の子たちにお祝いのメッセージを贈ることとなりました。
あげ初め式には、子どもたち9人を含む、約50人の方が集まりました。こいのぼりをあげるための立派な竹は、お父さんたちが毎日行っている「散歩しながらパトロール」活動の帰り道に山で見つけ、切って運んできたものです。ロープや滑車の取り付けもお父さんたちのお手製。うつみさんの想いに応えようと、力を合わせて作りました。
式の最後は全員でこいのぼりの歌を歌い、子どもたちが3匹のこいのぼりを空高くあげました。「やっぱり、こいのぼりはいいなぁ」と、皆さんが青空を泳ぐこいのぼりを見上げ、つぶやいていた姿が印象的でした。
青いこいのぼりを見上げるたびに山田町の皆さんが力を得て、前を向き復興へと進んでいかれることを願っています。
もう1年、やっと1年。被災した地で、この日をどう迎えたのでしょうか。その想いは、人それぞれかもしれません。しかし共通するのはこの366日間、みなさん、がんばった、本当にがんばったということです。
2012年3月11日、山田町。朝から、小雪が舞いました。しかし不思議なことに、あの時刻に近づくと、ぴたりと止みました。なんでしょう、この天気は。
町も道行く人も、普段とあまり変わらないように見えました。普通を装っているようにも見えました。1年を節目に、かつての日常を取り戻そうと、なんとか普通にしようとしているようにも見えました。
町にあるスーパーも、いたって普通でした。この日も、毎週日曜日恒例のポイント2倍デー。客数も、いつもの日曜日と同じか、少し少ないくらいでした。思っていた以上の穏やかさが感じられました。けれども去年のあの日までは、もっと穏やかな日常の空気が、この町には流れていたのでしょう。
14時46分。町にサイレンが鳴り響きました。スーパーでも、黙祷を呼び掛ける店内放送が流れ、客も店員も手も足も止め、手を合わせて黙祷しました。時が止まったようでした。風の音だけが聞こえ、少し寂しい気持ちになりました。
この日に、気持ちに区切りをつけようとしている方もいます。行方不明になり、まだ見つからない家族の、死亡届を出すことを決めたそうです。死を認めてしまうことへの、悲しくて悔しくて、どうにもならない気持ち。それを抑え込んで、なんとか前に歩き出そう、亡くなった人の分まで前に進まなければいけない、二人分、三人分、生きなければならない、そんな想いや使命感を必死に背負って。今、一歩を、踏み出そうとしています。
夕方、丘に登って見渡した山田町は、実に穏やかでした。2012年の3.11は、町も人も、多くのかけがえのないものを失ったマイナスの状態から、やっと立ち上がり、復興に向けてのスタート地点に立とうとしていると感じました。これからが勝負、本番です。
そんな山田町、岩手、東北、日本が前へ進むのか、もしくは後ろへ下がってしまうのか、この経験を後世へ伝え役立たせていけるのか、忘れ去り風化させてしまうのか、それは、私たち日本人ひとりひとりの気持ち次第、意識次第だと思います。私たちひとりひとりが一歩を踏み出せるかどうか、まさにそれにかかっています。
日が暮れかかり、冷え込みが増してきた帰り道。スーパーで買い物をしたお母さんと男の子が、楽しそうに手を繋いで帰っていく後ろ姿を目にしました。これから何ができるのか、いや、何をしなければならないか。自分自身に問い掛け、決意した一日でした。
来年のこの日。私たちはどういう光景を見ることができるのでしょうか。改めてそれは、日本人ひとりひとりの気持ち次第、意識次第だと、強く感じました。
ひな祭りはいつの時代でも、どのような環境でも、女の子にとっては毎年恒例の特別なイベントです。
被災地でも仮設住宅に住む女の子たちに喜んでもらおうと、山田町の4カ所の仮設住宅団地でひな祭りが開かれました。仮設住宅に住む方々がすべて企画し、食べ物や飲み物などもできる限り自分たちで準備しました。FIDRは各仮設住宅団地から要請を受けて、よりイベントを盛り上げるためのお菓子やケーキなどを支援しました。
女の子が少ない仮設住宅団地ですが、“昔の女の子たち”はたくさんいらっしゃいます。皆さん百人一首やおしゃべりに夢中になり、甘酒やちらし寿司を味わいながら、童心に返って楽しい時間を過ごしていました。
男性陣には飲み会も兼ねてのひな祭りとなった団地もありました。酌み交わし、語り合う中で、「これを機に自治会を設立しよう!」という頼もしい声も聞かれました。
FIDRは子ども、大人、お年寄りと世代を超えて、皆が集い打ち解け合えるコミュニティ作りを目指して、今後もイベントの開催をお手伝いするなど、被災者の生活環境が少しでもより良いものとなるよう、引き続きお手伝いをしていきます。
FIDRは、これまでに様々な支援をしてきた山田町や大槌町を中心に、今後も今まで以上に地域に根ざした支援を行うため、昨年11月、山田町のとある施設の部屋を借りて事務所を開設しました。岩手出身の新職員も2名加わり、新事務所での新しい体制によるスタートを切りました。
それまでは活動拠点が無かったため、通常事務所でやるべき事務作業や電話などは車中や役場のロビーで全て対応しており、まさに“モバイル・オフィス”。事務所が開設されたことにより、業務効率が格段にアップしただけでなく、より被災地に密着して活動を行うことができるようになりました。
「現場主義」をモットーに掲げるFIDRは、被害が大きくなかった内陸ではなく、敢えて津波が襲った被災地域での事務所開設を模索していました。そのなかで、唯一津波の被害を免れ、事務所開設が実現できそうなのが、現在FIDR事務所が入っているこの施設だったのです。建物は老朽化が目立つものの、まさに私たちが探していた最適な場所に位置していました。
水も出ずトイレも仮設で、すきま風が入り室内はとても冷え込みます。しかし、震災以来ずっと不安な日々を過ごしている被災地の方々のことを思えば、恵まれているし、この場所を貸していただいた行政の方々の好意に対しても、ありがたみを感じずにはいられません。
もうすぐ発災から1年が経とうとしていますが、復興への取り組みはまさにこれからが本番です。FIDRは今後も引き続き地域に密着し、被災者の方々と共に、復興そして発展へ向かって末永く歩んでいきます。
12月26日から29日の4日間、FIDRは日本体育大学の学生と共に山田町の仮設住宅に暮らす方々へ年越しそばを贈るとともに、大掃除のお手伝いや肩たたきなどをしました。
その折、学生の皆さんは、寒風吹きすさぶ中、日体大の伝統的な応援スタイル「エッサッサ」を披露し、新年を迎える町の人々を励ましました。
今回のエッサッサでキャプテンを務めたのは2年生の星田君です。仲間を率いてボランティアに臨んだ心の内を語ってくれました。
出身は福島県須賀川市。震災当時は親とも全く連絡が取れませんでした。しばらくして地元の友達が亡くなっていたり、被災していることを聞かされました。テレビで見た避難所は自分が卒業した高校でした。
何かをしなければ――
昔から正義感は人一倍強いと自負していた星田君。大好きな福島の人々、東北の人々のために今の自分ができることをと考えるやいなや、ひとりで大学の近くや商店街に立って募金活動を始めました。
しかし、そこに待ち受けていたのは冷たい言葉や無理解のまなざし。
「詐欺じゃない?」「ここで募金活動するな!」自分の思いは世間に容易には伝わらないことを知らされました。心が折れそうになり、ひとり涙を流したこともありました。
それでも相談した友人の紹介や、パソコンでのソーシャルネットワークを通して徐々に仲間も増えてきました。その後正式に「東日本大震災日本体育大学学生ボランティア」としてサークルを立ち上げ、田園都市線沿いを中心に募金活動を行っています。
これまでのボランティア活動を通して感じたことは「自分はいつも助けられている」ということ。募金活動をしているときにも道行く人から「頑張って」という暖かい声に励まされたり、協力してくれる仲間が近くにいることに気づきました。様々な出会いとつながりを通して心の栄養をもらい、人間として成長することができたと今改めて感じています。
父親も日体大出身。人間としての幅を広げたかったのと、日体大での独特の応援スタイルであるエッサッサにあこがれて日体大に入り、心身を鍛えてきました。いろいろな場所でエッサッサを行っていくうちに、エッサッサが本当に人を勇気づける力を持っていることに気づきました。
「エッサ」は自分の魂。エッサを通して被災地の人々を元気づけたい――その思いが今回の山田町でのボランティアに結実しました。
「遠いところからよく来てくれたね。こっちは寒いでしょう。」励まそうと思っていたのに、逆に被災者から気遣われる場面がいくつもありました。
「昔からの景色や建物は津波で消えたとしても、東北の人々の強さは消えていない。人々の優しさの裏側にある強さに触れ、力を貰った」山田町での4日間を終えた星田君の率直な感慨です。
「重機で出来る支援と、生身の人間でしか出来ない支援がある。今回被災地にきて感じたことを東京に帰ってから人々に伝え、共感してくれる人達と手を取り合って様々な分野での支援活動をしていけたらもっと良くなると思う。これからも自分たちが出来る支援活動を行っていきたい。」
エッサの魂が、これからも被災地を元気づけていくでしょう。
岩手県山田町。中心部は東日本大震災で津波にのまれ、瓦礫の山と化しました。瓦礫の撤去が進んだ現在は、一面のさら地に、住宅の基礎、鉄骨がむき出しの建物が点在し、津波の被害にあった自動車の山なども見られます。駅も駅舎ごとなくなり、線路も撤去されたため、駅や線路があったことは、間近に行かないとわかりません。
夜、町は真っ暗になります。
灯りは、幹線道路にようやく設置された街灯と、被害を受けなかった遠くの高地の住宅からもれるもののみ。月明かりの無い夜は、車のヘッドライトをつけないと、道がどこなのかわからないくらいです。
そんな町中に、ぽつぽつと、明かり灯り始めています。
その一つが、ある仮設の居酒屋さん。プレハブの中で7月より仮営業を開始し、毎晩地元の方々で賑わっています。外食場所がほぼ無いため、FIDRの職員も夕飯を食べに時々お世話になります。聞こえてくる話題の多くは、震災のときのこと、被災者用住宅などでの新しい生活のこと、仕事のこと、そして町の復興のこと。
なじみの顔が集い、ざっくばらんに言いたいことを言い、話し合う。それが今、元の暮らしを失った人たちが欲していることであり、話し合いの積み重ねが、暮らしや町の復興にとって大切なのではないかと感じます。
このお店は、町の復興の灯。この灯が、着実に増えていくことを願います。
電気も信号もまだ復旧せず、夜になれば真っ暗になる宮古市田老地区。そんな暗闇の中に打ち上げられる無数の花火。そして、日本最大級の規模と呼ばれた防潮堤の上に並ぶ無数の灯籠。漆黒の空間を多彩な光が照らす情景は、見る者に深い印象を与えました。追悼と復興の祈りを込めて、8月11日、「東北を、日本を、花火で、元気に。」を合言葉に、『LIGHT UP NIPPON(ライト・アップ・ニッポン)』と題した花火大会が、東北沿岸部で一斉に開催されました。
会場のひとつとなった田老地区。地上に長々と並べられた灯籠と、天空に打ち上げられては消えていくひとつひとつの花火に、亡くなられた方々の魂を感じた気がしました。
次々と打ち上げられる花火をじっと見つめる人たちの後ろ姿には、寂しさや悲しみとともに、亡くなった方々の分までしっかりと生きなければならないという、強い使命感も感じられました。 被災者の方々が元気を取り戻し、復興の活力をさらに強めてもらえるよう、今後も引き続き支援活動に励んでいきたいと、改めて思ったひとときでした。
津波により町の広い地域が壊滅的に破壊されてしまった岩手県大槌町。FIDRはこの町の避難所や仮設住宅に向けて、様々な支援物資を届けています。そんな中、町全体が活気づくような話題を、吉里吉里地区の避難所副本部長を務めていらっしゃる芳賀さんから聞きました。
先ごろ、住民自らの力で「NGO吉里吉里国」を立ち上げ、「復活の薪」と銘打つプロジェクトを始めたとのことです。被災者の皆さんが、がれきの中から拾い集めた廃材で薪を作って全国に販売し、その収益は地元限定の商品券に換えられ、参加した被災者に還元するという画期的な活動です。すでに新聞などでも紹介され、「お陰さまで大好評だよ!」と話してくださいました。
井上ひさし氏の小説「吉里吉里人」は、住民の知恵と連帯力により吉里吉里国を独立させるというフィクションですが、現実の吉里吉里の方々も素晴らしい工夫と行動力を発揮していらっしゃいます。この新しい活動をバネに大槌町全体の復興が勢いづき、被災者の方々が少しでも早く元の生活を取り戻せるよう、FIDRは応援していきたいと思います。
岩手県沿岸部の被災地では、仮設住宅への入居が少しずつ始まっています。
FIDRのスタッフが、宮古市にある仮設住宅を訪問し、支援物資の家電製品をできる限り早く届けようと各世帯をまわっていましたが、少しだけ足を止めて仮設住宅に入居されている方と話をすることにしました。
あるお宅のドアをノックすると、部屋の奥から一人の男性が出てきました。顔は真っ赤で、ちゃぶ台の上にはビールの缶が散乱していました。支援物資を手渡すと、男性は私の手を握り「ありがとなぁ、ありがとなぁ」と何度もお礼を言われました。また、「昼間っから酔っぱらっちまって申し訳ねぇ。でもなぁ、寂しくてきつくて、飲むしかねぇんだよぉ」と、目に涙を浮かべながら言われました。
話を伺うとこの男性は津波で家も何もかもが流され、最近避難所から仮設住宅へ移ってきて、一人で生活しているということでした。仮設住宅に入居できても、避難所と違い支援もまだ行き届いていないため、生活はまだ非常に苦しく不安だと話してくれました。そのため、仮設住宅には移らずに避難所に残る人もいるそうです。そんな中、お酒でなんとかその気持ちを紛らわせていたのかもしれません。
別れ際に「またちょくちょく来ますから、元気を出してくださいね」と言うと、微笑んでゆっくりうなずいてくれましたが、目は少し、寂しそうな様子でした。
FIDRは、被災者の方々が少しでも早く元の生活を取り戻すことができるようお手伝いをしながら、支援物資とともに『一人ではありませんよ、みんなが応援していますよ』という“全国からのエール”も確実に届けていきます。
日本最大級の防潮堤が決壊し、津波にのみこまれてしまった宮古市田老地区。家を失ってしまった被災者の多くは、現在も避難所での生活を余儀なくされています。そんな中、避難所でひとつ、嬉しい事がありました。避難所の隣に仮設商店街ができ、規模は小さいですが、津波で店を失った被災者の方々が、お店を再開していました。
まだ5店ほどしかありませんが、その中に、「Yショップ田老箱石」というパン屋さんがあり、おいしそうなカレーパンを買う時にお話を伺いました。「津波で家も店もすべて失くしました。周りの皆さんには頼りっきりで、迷惑ばかり掛けてしまい申し訳ない気持ちで一杯ですが、なんとかパンを仕入れてお店を再開しました。家族3人で、これからもがんばってお店を続けていきたいと思います」と、笑顔で話してくれました。
その隣の食堂には、「どんこ唐揚げ丼」というメニューがあり、昼食にいただきました。「どんこ」とはハゼの一種で、宮古の海で捕れるそうです。「はるばる東京から来てくれてありがとう」と、お味噌汁までおまけに付けてくれました。まだ不便な生活を送られている中での他人に対する気配りに、東北の人の温かさが心に沁みました。
宮古市では、5月から仮設住宅への入居が少しずつ始まりました。避難所での不便な生活から解放され、入居者からはほっとした表情と同時に、時折笑顔も見え始めました。
FIDRでは、宮古市の仮設住宅に入居する全世帯に支援物資として、炊飯器、電気ポット、ストーブを提供しています。「全国からこんなにたくさんの温かいご支援をいただき、皆さまには感謝の気持ちでいっぱいです。本当にどうもありがとう。」と、何度もお礼の言葉をいただきました。
しかし、まだ仮設住宅へ入居できた方はごく一部で、いまだに避難所での不便な生活を余儀なくされている被災者がたくさんいます。
FIDRではこれからも引き続き、支援を必要としている方々の声をくみ取って、被災者の苦痛を少しでも和らげられるよう、支援活動を行っていきたいと思います。
岩手県大槌町にて。
子どもたちにも少し遅い春がやってきました。4月25日に学校が再開することが決まり、新一年生にランドセルが配られていました。また、避難所には保育所の再開を知らせるチラシが掲示板に貼られていました。
家だけでなく、商店もすべて流され、買い物をする場所もなかった大槌町では、仮設のスーパーが設置されました。
人々は必要な日用品を町で手に入れる場所が出来ているようです。少しずつ生活が前に進んでいるのを感じました。
『阪神のときだって、新潟のときだって、「仮設住宅に入る人は不憫だな〜」と思ってTVを観ていたけれど、まさか自分が入ることになるなんてな・・・。』
仮設住宅の建設現場で、作業の合間の休憩をしている男性は深いため息交じりに言っていました。ご本人たちも被災者で、避難所や家の被害の少なかった親戚の家で暮らしており、それぞれの今の住まいから、毎朝役場の前に集まり、作業場に向かい、終日電気を通す作業をするという毎日を送っているそうです。
「救援物資だけで、何も買わずに、困らずに生活できるのは本当に助かるよ。」と多くの物資が、日本中から毎日届けられていることに驚いている一方で、やはり一番欲しいものは、今後の生活の先行きが見える家や仕事だとのこと。
「でも、とりあえず、俺が今やるべきはここの電気を通すことだべ」と明るい声で作業に戻っていきました。
津波で家を流されてしまった人々は、地域の学校やお寺、福祉施設など、地域に残った建物を避難所として生活をしています
大槌町にある赤浜小学校もそんな避難所のひとつです。この赤浜地区に暮らす全ての世代の方々が通ったのではと思われる歴史ある校舎は、中に立ち入るのも危険なほどに崩れていました。100名ほどの被災者の方々はその校舎と同じ敷地内にある体育館に生活していました。入口では最近届くようになった野菜や肉などを忙しそうに切っている女性たち。炒め物をするために、大きな鉄板と火を用意している男性たち。「他の避難所ではプライバシーのために仕切りをしたりしているみたいだけど、ここはみんな知り合いだから、そんなのない方がいいねと話していたんです」と話していたのは、避難所の物資担当の方。避難所にいる人達が協力して、自分達に合った方法で、毎日を生きている力強さを感じました。
ほとんどの民家が流されてしまったこの地区では、小学校の体育館が唯一、みんなが避難生活を送れる場所です。でも、その校門からは、海がすぐそこに見えます。先週の大きな余震のときには、懐中電灯を片手に夜中に全員で避難所から高台の方へ駆けて逃げたそうです。 選択肢のない中では仕方ないとはいえ、避難所に暮らしている方々が、余震でさらにその避難所から逃げなくてはならない状況を思うと心が痛みます。一日も早く安心して眠ることのできる住まいができることを願わずにはいられません。
岩手県宮古市田老地区は高さ10mの防潮堤を二重に張り巡らし、津波対策のモデル地区として国内外に知られていました。
しかし、地域の住民の自慢の防御システムも、今回の巨大な津波には歯が立ちませんでした。かつて多くの家が立ち並んでいた町は壊滅しました。町の海側の一帯は、全てが押し流されて黒い砂に覆われた平地と化し、中心部周辺は崩壊した家の建材や車、船が高く折り重なっています。 雪が舞う冷風の中、被災された方々が、かつて自分の家があった場所を見にきていました。全てを一瞬にして奪われてしまったという信じがたい事実を、2週間が過ぎた今、改めて確認しているようでした。
「何にもなくなっちゃったね」
防潮堤の上でおばあさんが言いました。
そして、「私の息子の家はあそこにあったんだよ」と何も残っていない土地を指さしました。
私の家は町の中ほどにあったんだけどね。やっぱりなくなっちゃったよ」
幸い、ご家族の皆さんは丘の上のお寺に駆け込んで、命は助かったとのこと。
「本当に怖かったよ。海が上から落ちてくるように感じたね」
おばあさんは、今は宮古市の中心部に住む妹さんの家に身を寄せています。気がかりなのは、漁業を営む息子さんのこと。船も網も失ってしまい、これからどうやって生計を立てていくのかまだ見通しはたっていません。
被災し全てを失った方々にとって、苦難を脱する道は長く険しいでしょうが、FIDRはできるだけ現地の方々に寄り添い、少しでも早い回復を遂げられるよう応援していきます。
津波で破壊された海沿いの町を歩くと、変形し砂にまみれたまま残されている家庭内の道具たちがそこかしこに目に入ります。それまで家族の団欒を見守ってきたであろうそれらの品々は、持ち主の元に帰ることもなく、静かに寒風に吹かれていました。
新しい電化製品を買ってきたときには、機能やデザインにわくわくして、大切に扱ってきたことでしょう。柔らかい寝具に包まれて東北の冬にも暖かく眠ることができたでしょう。家族のアルバムは、かけがえのない思い出の宝庫だったはずです。 そうした品々の中に、ふと、目に留まったのは、仏教のご詠歌の経典と思われる書物でした。空を見上げていたページには、「無常御和讃」と題して次の句が並んでいました。
人の此の世の儚(はかな)さは
冥路(よみじ)に急ぐ露の身の
暫(しば)し仮寝の旅枕 あわれ常なき世なりけり ・・・
津波に呑まれて変わり果てた姿の町にたたずみ、まさに人の世の無常を感じずにはいられません。しかし無常だから何をしても無駄だというのでは単なる虚無主義に過ぎません。人の世は無常だからこそ、精一杯生きなければならないのです。
「無常御和讃」は次の句で締めくくられていました。
露のひぬ間もつかの間も
励みて積めよ善根を
山の高根に咲く花は
永劫かけて香るべし
確かに、訪れる人のない高山に咲く花も、その美しさを誰かに愛でてもらおうという魂胆はなく、ただひたすらに代々咲き続けているのでした。
今回の震災被害の巨大な規模に比べれば、私たちができることは、実に些細なものと感じてしまうことがあります。でも、その小さなことを愚直に行っていくことが、労苦を忍んでおられる方々に本当に喜んでもらえる有意義な復興支援に繋がっていくはずです。どうやら被災地に残された品物に励ましを与えられたようです。
FIDRが、岩手県宮古市を訪れた時の被災地での様子です。
震災による死者・行方不明者計1,900人あまり。震災発生から1週間を過ぎても、避難生活を送る人は6,000人を数えていました。盛岡から山間の道を車で2時間強の道のりのこの地域は、支援がまだ大きく不足している模様です。
大きな被害を受けた市役所庁舎の中で懸命に働いていらっしゃる災害対策担当の方にお話を伺いました。 市からは支援物資の要請を発しているものの、なかなか送られてこないとのことです。自衛隊による炊き出しもようやく20日から本格的に始まったようです。水や米は比較的入手できているものの、野菜などの食材や調味料、食器が足りないと伺いました。避難生活が長くなるほど、非常食ではなく、通常の家庭料理が体調と精神のバランスを保つために重要になってきます。
避難所のひとつとなっている宮古小学校では、400人ほどの方々が体育館や教室で生活していました。避難生活を送る人々へのサポートをこの学校の先生方が献身的になさっています。
校長先生と副校長先生が説明をしてくれました。
この学校では、震災前の3月2日に避難訓練をしたばかりで、震災発生時はまだ全校児童が下校前で校内にいたため、幸い200名の児童全員が難を逃れたということです。15km離れた隣の町の小学校では、授業が午前中であったために、多くの被害が生じてしまったようです。津波の危険性が高い宮古市の人々には日常的に津波に対する警戒があり、過去にも津波警報が発せられることは時折ありました。
今回の津波では、これまでの警報の時と同じように、それほど高い津波が来ることはないだろうという慣れから来る油断に陥ったために、亡くなってしまった人がいることが、残念であると伺いました。 先生方は、同校で避難生活をする人々の中でも、特にお年寄りの健康面を心配されています。
今後電気や水道といったライフラインが復旧すれば、現在の避難者の半数近くが帰宅できるだろうと推定されていますが、「宮古市内には、帰宅できない人が多数いる、さらに被害の大きい集落があるので、そちらへの支援をぜひお願いします」との言葉を校長先生から受け取りました。今回の訪問で、 宮古市周辺地域は、他の支援団体がまだあまり手を差し伸べていない状況であることが分かりました。
FIDRは、今週末、炊き出しが始まった宮古市へ、食用油、調味料や野菜などの支援物資を届ける予定です。
被災地の様子についてはすでに多くの報道で伝えられておりますので、ここではFIDRが調査を行った被災地宮城県・岩手県で得た印象をお話します。内陸の市街地では、地震による建物の損傷はそれほど顕著には見受けられません。FIDRがかつて緊急救援活動を行った中国四川やインドネシアなどの震災地では、倒壊した建物が無数に見られました。それに比べるとやはり日本の建築物は耐震強度が高いことがうかがえます。電気・水道も普及が進んでいますが、燃料の不足は深刻で、ガソリンスタンド近くの道路脇に給油を待つ車の列が延々と続いています。
情景は、海岸近くの町に入ると一変します。一面に黒い砂が地面を覆い、建物は完全に壊れてその建築部材や家具、生活用品が散乱しています。自動車は奇妙なバランスで重なりあい、漁船は電気の消えた信号機にもたれかかり、線路は巨大な力で捻じ曲げられています。すべては津波の破壊力によるものです。
あまりの惨状に言葉は失われます。あたかも戦争で爆撃を受けた町の姿と見まがうほどです。明らかな違いは、ツンと鼻につく潮の匂い。このすさまじい殲滅は大量の海水に飲み込まれたために生じたことを否応なく思い起こさせます。海岸沿いには5mの高さの強固な堤防が築かれています。それを背にして壊滅状態の町を眺めると、地球の大きさに比べれば、人間は微小な存在にすぎないことを改めて感じずにはいられません。
しかしそんな小さな人間でも、互いに手を取り合い、力を結集して、あまたの困難を乗り越えてきたことは人類の歴史が語っているところです。自然がどんなに過酷な試練を私たちに課そうとも、ひたすら手をつなぎ、支え合って立ち直っていくのが人間の特質といえるのではないでしょうか。
今、被災者の人々は長年の温かい思い出の詰まった土地を離れ、避難所での生活を送っています。その暮らしは肉体的にも精神的にも負担の大きいものです。それを少しでも軽減するために、FIDRは真に効果的な支援を目指していきます。そのためにぜひ皆さんと手を取り合いたいと願っています。